【書評/要約】織田信長のマネー革命 (武田知弘 著)(★4) 経済センスに長けた信長の経済戦略に驚き。武力の強さも経済力あって!

歴史は「出来事・事件」を中心に論じられることが多いですが、「お金の流れ」で歴史を見ると、今まで見えなかったものが見えてきます。

織田信長は「桶狭間の戦い」「長篠の合戦」に見られるように、「武力」を以て天下を制した偉人というイメージが強いですが、その強さの源は「経済力」。さらに言えば、富を稼ぐ経済センス・マネー戦略があってこそです。

武田知弘さんの「織田信長のマネー革命」を読むと、信長が如何に経済センスのある人だったか、また、その経済政策がその後の日本に与えた影響が大きいことがよくわかります。現代にも通じる、信長の非凡な手腕の凄さに驚かされます。

戦国武将好きも、歴史好きも、経済・マネー本好きの方も、すべての方が面白く本書を読むことができる本です。今回は、本書からの学びを紹介します。

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信長の強さの秘訣は経済力

【書評/要約】織田信長のマネー革命 (武田知弘 著):信長の強さの秘訣は経済力

信長は、その類まれな軍事的センスで天下統一を果たそうとしたことで知られていますが、新しい武器・製造技術・兵力を整えるには「経済力」が必要です。

他の戦国武将と比較して、領土が広いとも言えない信長は、いかにして経済力を手に入れたのでしょうか。

信長の3つのマネー革命

信長のマネー革命において大事なのは、「港」「寺」「城」の3つです。

信長の3つのマネー革命

:領地よりも港を欲した
:延暦寺焼き討ちなど、仏教寺院を迫害した
:居城を何度も替え、新しく巨大な城を造り続けた

これが、どのように「お金」おみ出したのかは、後ほど、詳しく説明します。信長のマネー革命について見ていく前に、まずは、信長は「日本の経済史」において大きな役割を果たした人物だったことから見ていきます。

日本の経済システムは信長が作った

義務教育の歴史では、信長の経済政策と言えば「楽市楽座」ぐらいしか学びません。しかし、実際は、日本経済を変える画期的な仕組みをいくつも作っています。

内容詳細
❶日本の通貨制度の基礎作り・中央政権において、日本史上初めて通貨として金銀の使用を促進
・金銀と銅銭の価値比率を制定・体系化
・金の大判も鋳造(江戸幕府の大判小判鋳造の原形)
❷枡の統一・商取引に重要な、ものを量る単位「枡」を統一
・正しく税を徴収。悪代官による不正も防止
❸関所の撤廃・領地を占領するごとに、その地の関所を撤廃⇒物流促進
❹楽市楽座・従来よりもはるかに安い価格で物が流通する流通市場の構築
・楽市楽座が全国に波及したことで、日本全体の商体系の改革を促進

日本の貨幣経済の基礎を作る

「お金=貨幣」は経済の根幹です。そこで、❶についてより詳しく見ていきます。

中世の日本の通貨は中国から輸入した銅銭でした。しかし、戦国時代になると明が禁輸、日本で貨幣がつくられるようになりましたが、結果、貨幣の秩序が乱れていました。

そこで、信長は「安定した貨幣経済」の実現に向け、金・銀で貨幣を鋳造・流通させました。

さて、ここで、貨幣を流通させるためには、以下の2つの条件が整うことが必須です。信長は、それをも見事なマネー戦略で実現しました。

安定した貨幣流通に必要な2条件マネー戦略
❶その通貨が十分に供給されること・貿易港「堺」を手中にし、金を輸入
・「名物狩り(贈答)」で金を集め、市中に放出
❷その通貨に価値の裏付けがあること・信長自らが集めた金を市中で使用
・「金銀は通貨として使える」ことを世間に知らしめる
⇒貨幣の信任を高める

なお、戦国時代の金といえば、武田信玄の「甲州金」ありますが、こちらは、通貨の流通条件を満たすには至りませんでした。武田軍は織田軍に敗れましたが、マネー戦略でも「差」があったのです。

【港】貿易・交通の要、金の集まる場所を押さえる

【港】貿易・交通の要、金の集まる場所

前章で、信長の錬金術のキーワードが「港」「寺」「城」であることを述べました。この章では、「港」について見ていきます。

当時、堺は最も栄えた国際港日本の最も東にある国際港であり、海上交通の要であり、貿易で富の集まる場所です。信長は早くからこの地を手に入れたいと考えていました。

そこで、1568年、信長は将軍足利義昭を奉じて上洛し、畿内を制圧した際、褒美として堺、大津、草津に代官を置く許可を手にいれます。「堺」は、武器・火薬の材料 硝石などの武器の交易ルート、「草津」は京都から琵琶湖への玄関口、「大津」は京都から北陸への通過点です。他の武将らから見ても、とても重要な拠点を信長は手に入れたのです。

1575年、「長篠の戦い」の戦いでは、織田、徳川連合軍と武田勝頼軍が激突し、戦国最強とされた武田の騎馬軍団を、織田・徳川連合軍が打ち破った合戦であり、火縄銃の戦術「三段撃ち」が有名ですが、武田軍は信長のように鉄砲を調達することが叶わなかったのです(信玄は戦国大名の中でももっとも早く鉄砲に目を付けた人物)。

【寺】巨大特権階級の解体

【書評/要約】織田信長のマネー革命 (武田知弘 著):延暦寺の焼き討ちは〝大財閥〟の解体

信長は、「比叡山延暦寺の焼き討ち」「石山本願寺との戦争」等、仏教を迫害しましたが、その目的は、信長の天下統一の大きな障害であった「巨大特権階級の解体」です。当時、寺社は国の政治経済の中枢を握る「特権階級」でした。

比叡山は戦国時代最大の財閥

寺社の中でも延暦寺は全国に荘園をもつ等、桁外れな経済力をもった「財閥」。さらに、寄進された富で暴利で金貸しを行う悪徳金融業者であり、貸したお金を返さない者は「罰が当たる」といって取り立てるわけですから始末が悪い。さらに、絹、酒、麴、油など重要な商品も寺社が牛耳っていました。

平安時代末期の白河上皇が、世の中で思い通りにならないものの1つに「比叡山の僧」を挙げていますが、平安から戦国時代に至る長きにわたって「寺社」は手に負えない存在だったのです。

畿内の流通拠点を押さえていた「石山本願寺」

石山本願寺は、楽市楽座の発祥の地です。寺内町には多くの商人が集まり、寄進で大きな経済力を手にしていました。さらに、財力を元に、堺の商人と組んで渡明船を造り、日本全国から商品を買い集め、輸出入を行う商社になる計画まで立てていました。

寺院は要塞都市であり、武器の製造基地

寺院は石垣・山城など要塞を作る技術、鉄砲を作る技術すら持っていました。戦国時代、鉄砲の主な3大産地の1つが根来寺です。信長が脅威を感じていたのは言うまでもありません。

だからこそ、信長は「寺社のあまりに強大すぎる権力を弱める」ために寺社を迫害しました。

現在、世界的に日本ほど宗教の影響が小さい国はありません。世界では様々な宗教ルールや紛争で溢れています。現代の日本人が、宗教の弊害を受けずに済むのは、信長のおかげによるところが大きいのです。

【城】都市建設と徴税

【書評/要約】織田信長のマネー革命 (武田知弘 著):【城】都市計画と徴税

日本の県庁所在地の都市のほとんどは、「城下町」が発展したものです。この「城下町」の原形が「安土」にあります。

現在の都市の形を作った信長

安土城が位置した琵琶湖は、当時、日本の交通の要所。京都から東である関東・東北・北陸に行くには琵琶湖を船で渡るのが一般的だったからです。さらに、信長は京都までの大動脈も整備し、京都に何かが起きても半日で駆け付けられるようにしました。

つまり、経済的な発展が約束される交通・商業の地に、軍機能が備わる都市を計画し、築城したのです。

減税し、人を呼び、儲けた者から税徴収

城をを作るには莫大な費用がかかります。しかし、信長は城を移すたびに、大きな城を築城しています。しかも、庶民に重税をかけたわけでもありません。なぜ、信長はそんなことができたのでしょうか?

信長は、領地内にある様々な権益を整理(中間搾取の撤廃)し、税制度を極力単純化する改革を行いました。石高制、枡の統一、関所撤廃もこれら方針に則ったものです。

これにより、庶民への税金を安くし、人を呼び込み、商売を始めやすくし、そして、儲かったものから税金を徴収しました。つまり、庶民にとっては減税です。そして、結果的には、多くの税を集めることに成功しています。信長は民衆が納得する政治を行ったからこそ、領内の一揆や反乱に戦力を奪われることもありませんでした。

現状の問題を直視し、前例にこだわらず解決する

ここまで見てくると、信長の政治&経済戦略は次のようなモノだったと言えます。

現状の問題点を直視し、「前例にこだわらず」に解決策を探りだし、粘り強く実行する。まさに、事業を成したのです。

最後に

武田知弘さんの「織田信長のマネー革命」からの学びを紹介しました。
信長、凄い人ですね。続く秀吉・家康の功績も信長から多分に学んだことが多かったことを改めて理解させられました。

お金から物事を見ると、本当に、歴史・世の中がよく見えます。是非、皆さんも本書を手に取って、多くの学びを手にしてください。

織田信長の城の一つだった岐阜城&岐阜市内の観光記録です。様々な歴史に触れられる素敵な地でした。戦国時代の歴史本・歴史映画などを見ても、より深く関心が持てるようになるので、おすすめです!