人生の問題に正解はない。しかし、人間という生き物はどうしても、あらゆるものに「正解」を求めがちです。

その理由は、「正解がない」と非常に不安や不満を感じるから。特に、考えることが苦手な人は、自分で考えることなく、すぐにググって回答を求めようとしますが、物事には正解があるとは限りません。特に、人生については、唯一の正解はないでしょう。

しかし、人生最終には唯一確実なことがあります。それは、「最後にあるのは【死】」だということです。

今回は、本書「死の壁」は、解剖学者として死に直面する機会が普通の人より圧倒的に多い養老孟子さんが、【死】ついての考えを徹底的にまとめた一冊。

私個人としては、今まであまり深く考えたことがないことに触れたり、新しい価値観・見方・視点を与えられた本となりました。

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なぜ人を殺してはいけないのか、自殺をしてはいけないのか

なぜ人を殺してはいけないのか

人を殺してはいけない。そんなこと、当たり前じゃん。多くの方はそう思うでしょう。

しかし、世界では今なお戦争が勃発し、人が死んでいます。しかも、国・組織、国によっては個人が、自己・自国を守ることを理由に、大量の兵器を製造・保有・購入しています。「国益」を理由に失われた命もたくさんあります。

では、なぜ、人を殺してはいけないのか。それは、二度と作れないものだからです。
自殺がダメなのも同じ理由。死んでしまっては、二度と同じものは作れないからです。それだけ、「生」を受けることは尊いのです。

無闇に殺してはいけない理由は相手が牛でも豚といった「生き物」でも同じです。ベジタリアンになれと勧めているのではありません。ベジタリアンだって何らかの形で生き物の犠牲のうえで生活が成り立っています。

ただ、私たちの誰もが「罪深い存在」であるという思いは持っているべきではないか、人間中心主義の危うさを認識すべきではないか、と、養老さんは私たちにアドバイスします。

時代と共に変わる「死」に対する意識

時代と共に変わる「死」に対する意識

養老さんは、19世紀、情報化社会が生まれてから、人間の「死」に対する意識が変わったのではないかと分析します。

死体は気持ち悪いという考え

『平家物語』や『方丈記』など、中世の日本文学に代表される思想では、人間は移り変わるものだ、という考え方がありました。しかし、この考えが、情報化が進むことで消えてしまった、つまり、「人間は不変の存在だ」と考える意識が強くなったと養老さんは指摘します。

かつて、死は身近なものでした。しかし、医療が発達し、人は死に刃向かうようになり、結果、死は身近なものではなくなっています。そのため、現代人は「死体は気持ち悪い、見たくない」と思う思うようになりました。

しかし、実際の死体は非常に静かなものです。お葬式などで遺体をに手を合わせて気持ち悪いと思う方は少ないはずです。

なぜ、死体は気持ち悪い・怖いと感じるのか

死体は気持ち悪い・怖いと感じてしまう理由は、人間は想像のを膨らませてしまうからです。勝手に想像して本物より怖いものだと思ってしまう。

地震や火事も、実際に起こったら怖がっている暇はない。ふだんとはまったく違う精神状態になるから、パニックになるか、変に落ち着いてしまったりするかのどちらかです。死体についても同じです。

死が身近すぎる弊害:死を前提にした人間

ただし、死が身近すぎることには弊害があります。それは、「死を前提にした人間ほどたちが悪いものはない」からです。

山本七平氏は帝国陸軍についての分析をして、自らを死者と同じだと思っている人間は、世の中の法律も何も通じないと指摘。確かに、以下のような死を前提にしている人たちの「命がけ」の行為は、凶暴で破戒的。一般常識は通じません。

・「陛下のために死ぬこと」を錦の御旗に「天皇陛下万歳」と叫んで散った人々
・己の神や思想に心酔し、喜んで自爆するテロリスト
・大阪池田小児童殺傷事件の犯人で、死刑を望んだ宅間守などの無差別殺人鬼

生死の境目

生死の境目

私たちは、生死には境目があると思ってます。しかし、実は生と死の境の定義は非常に難しいものだと養老さんは指摘します。

社会制度上必要な「生死の境目」

生死の境目の指摘が難しい理由の一つは、私たちは「死」を経験できないからです。しかし、社会の制度、法律としては「生と死の切れ目」を決めることを求められます。医者は死亡診断書を書くにあたって、死亡時刻を空欄にしておくことは許されません。死亡時刻、すなわち「死の瞬間」を決定しなければならないのです。

しかし、「生」の定義は思った以上に難しい。「脳死」「安楽死」「人工中絶」が議論になるのもそのためです。

死体には3種類ある

養老さんは、死体には3種類あるといいます。なるほど!と納得した考えです。

一人称の死体:自分の死体=「ない死体」

もっとも身近なもののようにも思えますが、実はこれは存在しません。自分自身ではそれを見ることはできないからです。

二人称の死体:親しい人の死=「死体でない死体」

家族、知人など親しい人が亡くなったとき、葬式などでご遺体に手を合わせると思いますが、親しい人の死体は、いわゆる「死体」と思えるでしょうか。多分、死体には見えません。それが、「死体でない死体」ということです。

三人称の死体:誰かの死体=「死体である死体」

第三者、赤の他人の死体。これは、なぜか死体に見えます。これが、「死体である死体」。
「三人称の死体」のみが、私たちにとって簡単に死体として認識できるのです。

交番に貼ってある「昨日の交通事故死者一名」というのは、まさに第三者の死です。この死に対して、人は無関心です。無関心ならまだしも、下手をすると「三人称の死体」というのは半分娯楽のようになっている部分もあります。ワイドショーではよく事故などについて報道されていますが、半分娯楽化しています。

日本人の死生観に大きく関わる「共同体意識」

日本人の死生観に大きく関わる「共同体意識」

日本人は、日本人特有の「共同体意識」があります。それは日本の大学入試然り、同質性見極めの基準が厳しく入るのが難しい。その代わり、入ると規則は緩いところがあり、死ぬまで「●●大卒」という共同体に所属できます。この「共同体意識」から「死」を見つめて見ましょう。

死は穢れ?!

大抵の人は、葬式帰りに、自宅に入るまえに身体に塩をふりかけます。ではなぜ、身体を清めなくてはいけないのでしょうか?

清める必要があるのは、衛生上からではありません。亡くなった相手を「穢れ」として見ているからに他なりません。

これは、「死んだ奴は我々の仲間ではない」というルールを暗に示しているのです。

死んだら名前が戒名されるのも不思議な話ですが、これも、「死んだ奴は我々の仲間ではない」からです。死んだ途端にこの「ヒトサークル仲間」から外されたのです。つまり、死者は確実に差別対象なのです。

胎児は人間か?

お母さんのお腹に宿った「胎児」。この、胎児は人間なのでしょうか?

実は日本では胎児が人間として認められていません。生まれてくるまでは「親の一部」だと考えられていて、生まれてくるかどうかは親の一存に任されています。

養老さんは、海外より日本で「母子心中」が多い理由、「人工中絶」に対する議論も米国に対して盛んでない理由も、ここにあると指摘します。米国では、人工中絶が常に大統領選挙の争点の一つもなるほどです。母親が自殺するときに子供まで道連れにするというのは、外国では非常に特殊なことです。

脳死:ヒトサークルの仲間なのか?

日本では、中絶に対して、「脳死」については喧々諤々とした議論が多い。養老さんは、脳死の是非問題も「ヒトサークル」に深くかかわっていると指摘します。

通常、サークルメンバーから外す、すなわち村八分にするには、メンバ剥奪ルールが必要です。「ヒトサークル」からのはじき出しは、人間としての権利を剝奪することであり、それには、「村の総意」が必要となります。

ここで問題になるのが「脳死は死んだやつか?」です。当然、これを村の総意を持って決めるのは難しい。だから、脳死については議論になっています。

共同体と正義

戦争やテロが起きるのは、原理主義によるところが大きい。一元論に陥ったときに、人は絶対の真実があると思い込んでしまいうからです。絶対の真実を信じる人は絶対の正義を振りかざします。この正義の押し付けがましさは、共同体の持つ一つの体質です。

会社でも家庭でも、「俺がこんなにみんなのために必死になっている時に、お前らなんだ」という対立はよく起こりますが、共同体は平等性を求めます。「みんなのため」には、本当はいろんなことをしなければならないのです。

ただし、政治対立には注意が必要です。一見対立しているようで、実は対立していないことが多い。対立しているように見えても、実は同じであることが多い。表現方法が逆さになっているだけで、反権力を声高に言っている者も、実際は俺に権力をよこせと言っているに過ぎず、決して体制そのものに異を唱えているわけではないことが多い。うっかり騙されないようにすることが大事です。

自分の死は悩んでも仕方ない

自分の死は悩んでも仕方ない

死について考えることは重要です。しかし、自分が死んだらどうなるかというようなことで悩んでも仕方ありません。

考えるべきは二人称・三人称の死

人は自分の死についてよく考えます。しかし、養老さんは、考えるべきは「一人称の死」ではなく「二人称の死」「三人称の死」です。自分の死ではなく、周囲の死をどう受け止めるか、ということのほうが考える意味があります。

死んだらどうなるのかは、死んでいないからわかりません。しかし意識が無くなる状態というのは毎晩経験している。眠るようなものだと思うしかない。

死というのは勝手に訪れてくるのであって、自分がどうこうするようなものではない、

安楽死や脳死よりも、介護のルールの方が大事ではないか

安楽死や脳死の基準は議論されています。しかし、「介護のルールの方がもっと大事ではないか」と養老さんは指摘します。介護には家族だけでは支えきれない状況もあり得ます。こんな時、みんな納得のルールがあれば、「うちのばあさん、とても家族じゃ面倒見切れないんですよ。誰か手伝ってください」という話がしやすくなるのではないかと指摘します。

しかし、日本人は家族の問題に対して、非常に人目を気にする。だから家族で背負おうとして苦労をします。 しかし、通常の人は、介護の素人です。

生きがいは何かという問いは「暇の産物」

老後、時間ができると人は「生きがいとは何か」を考えるようになりがちです。

しかし、人は、本当に喰うに困っているとき、生きがいとは何かなどと考えません。また、何かに本気になって集中しているときには、生きがいとは何かなんてことについて考える余裕も必要もありません。いわば、生きがいは何かという問いは「暇の産物」なのです。

最後に

今回は、養老孟司の「壁シリーズ」から「死の壁」を読んで得た気づきを紹介しました。紹介した内容以外にも、いろいろと考えさせられる内容は多い出ず。

是非、お手に取って読んでみてください。