銘文で始まる鴨長明の「方丈記」。
世は無常。人も住処も川の流れと同じくもろくはかない。
まさに、あまりな銘文で、その意味をかみしめて思うと、ホロリと静かな涙が流れる一文ですが、この先に続く長明の言葉は、さらに心に響きます。改めて、古典のすばらしさを感じる作品であり、特に東日本大震災以降、多くの人に読まれた意味が分かります。
感動して、出会ってよかったと思える一冊となったので、内容をまとめておきたいと思います。
目次
前半は天変地異、後半は長明の人生
鴨長明は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての日本の歌人・随筆家です。下鴨神社の神事を統率する鴨長継の次男として1155年に生を受け、1216年に亡くなります。
鴨長明が生きた時代
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」と時代が重なります。
源頼朝がなくなったのが、1199年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた「承久の乱」が1221年で、この時代は鴨長明の晩年期に当たります。つまり、鴨長明は、平清盛の全盛期・源平合戦、そして、朝廷と幕府が力を争って、世が大いに乱れていた時代を生きた人だということがわかります。
方丈記の構成
鴨長明はエリートな家に生まれ、エリート競争に敗れ、山にこもりひっそり暮らしました。そして、方丈記もそれに対応するかのように、前半・後半の2部から構成されています。
前半:当時の人々を襲った天変地異と苦しむ庶民の暮らしを見て、世のあわれを表現
後半:自分の負け組人生で考えたことを書き綴る
以下では、前半・後半に分けて、その時代背景と長明の生き様を中心に見ていくことにしましょう。
前半:天変地異編(人の人生のはかなさ)
平安末期、天災が立て続けに起こり天変地異が発生。そこで、自らが経験した天変地異、及び、それらに人生(人・住まい)を翻弄されてしまう人たちの様が淡々と記されています。
人々を襲った5つの災厄
平家物語にみられる平安末期、災害や政治的な思惑で、人々は大きく苦しめられました。
1177年 安元の大火
1180年 治承の竜巻
1180年 福原遷都
1181年~1182年 養和の飢饉・疫病
1185年 元暦の大地震
PrimeVideoでアニメ「平家物語」を見ると、理解が深まります。
鴨長明は、自分ではどうすることもできず、もがき苦しむ時代を生きて、以下のように語ります。
・神仏も恐れぬ行いもしてしまう(生きるために仏すら薪にしてしまう)
・愛情深いものほど死に近い(愛が深いものほど、愛する者に先に食糧を与えてしまうため、先に死んでしまう)
人間の愚かさを感じざるを得ません。しかし、人間は時代に翻弄されながらも生きていかなければならない。生きることは大変なことだと痛感させられます。
大地震、そして威力と頻度を増す台風の脅威は、今我々が生きる現代と重なります。
福原遷都はなぜ災厄?
上記の5つの「災厄」の中で、「福原遷都」のみ異質ですが、これは政治の乱れを説いています。
「鳴くよウグイス平安京」でおなじみ、794年の平安京遷都以来、京にあり続けた都を、それから約400年後の平安末期に平清盛が宋貿易、および、新しい王朝出発のために京を福原に移したわけですが、結果、出世したいものは我先に福原に移動したため、京の都はあばら家化し、荒れ果てました。
しかも、急すぎる遷都の結果、わずか半年で福原遷都は挫折します。平家一門は自らの贅沢ばかりを気にかけるため、人々の不満はつもり、また、貴族が武士化したことで物騒な世となりました。
天災とは異なりますが、まさに、遷都は人々の暮らしが不安化する大きな災厄であったのです。人の過ちの歴史ともいえる「政治の歴史」を学ぶことの大事さを教えられます。
ちなみに、1180年より始まった源平争乱は、1185年に「壇ノ浦の戦い」で閉幕。1192年に源頼朝が征夷大将軍に就任。鎌倉時代が始まっていきます。
後半:負け組人生編(負けて見出したものとは)
鴨長明はもともとはおぼっちゃん。下鴨神社の神事を統率する鴨長継の次男として生まれます。本当なら神社の長として生きられたはずの人生でした。
~50歳まで
しかしながら、18歳で父を失った後、20歳ごろ鴨社の出世競争に敗北、30歳で家に居場所がなくなり家をで、どんどん没落していく人生を歩みます。50歳手前にして、後鳥羽上皇に和歌所の役人として取り立てられ、寝るのも惜しんで仕事に励んだ時期もあり、褒美として鴨社の一つの長に推薦されるの鴨社のトップがそれを拒否。あまりの失墜に役所を離れ、失意の出家してしまうのです。こんなところに鴨長明の破滅型な性分が見え隠れします。
そんな人生を振り返り、長明は「いろんなことに耐え忍ぶ我慢をし、人生の節目節目で負け続けた」と言っています。
そんな無情な人生が、最初の方丈記を書くきっかけとなり、また、川で人生を表現した冒頭の一文となったのでしょう。人生にどう負けたかは作品内に書かれていません。語るのも嫌だったのでしょうか…
50歳以降。真の幸せに気づく
出世競争に敗れた長明。その後、極めて質素な暮らしを始めました。とことん質素、人間関係も捨て、自分の好きなように生きる暮らしが、あまりにユートピアだったといいます。
そしてその暮らしの中で、「常に手足を動かすことが体の養生になる」「心の持ちようで、楽しくも苦しくもいかようにも変わる」と気づきます。
※当時の貴族生活では、身体を動かす労働はお付きの者にやってもらうのが当たり前。移動も牛車を使うため歩くことはありません。
そんな当たり前のことであるけれども、「真理」に気づいた長明は、権力を持ち、裕福に暮らす人たちに対して、以下のように暗に投げかけます。
・あくせく働いて本当に幸せなの?
・心が安らかでなければどんな宝物でも意味はないのでは?
・あなたたちからみると私は不幸そうに見えるかもしれないけど、私は山で暮らして健康で幸せですよ
「方丈記」が現代人に刺さる理由
最近は賃貸支持派が増えてきましたが、特に高度経済成長期は「持ち家こそ、幸せの証」という風潮があり、家を持つために、あくせく働き、何十年という住宅ローンのためにアクセク働いてきました。しかし、そんな世代に生きた人たちに「東日本大震災」は大きな疑問を投げかけました。
しかし、本当に大きな家とか、そんなもの必要なの?人も住まいも川と同じように常に変わりゆく無常なものだから、モノ・執着すべてをそぎ落とし(断捨離)、ミニマルな生活をしたほうが幸せでは?
そんなことを、今から800年前に生きた鴨長明に教えられます。
最後に
今回は、鴨長明の「方丈記」を紹介しました。
実は、方丈記は上記では終わりません。晩年、長明は「質素な暮らしにこだわることも執着。これも煩悩であり、そんな楽しみを記していることも無駄に時間を過ごしていると言えるのではないか」と気づきます。そして、「もともと山にこもったのは心を清めて仏道修行をするためではなかったのか」と自問。そして、「たゝかたはらに舌根をやとひて不請の念佛、兩三返を申してやみぬ。」とその彼なりの答えを述べています。
その意味はどういうことか、是非、原文と現代文訳で味わってみてほしいと思います。