【書評/要約】はじめての大拙(鈴木大拙、大熊玄 著)(★4) ~禅の賢威に学ぶ「生き方」「心の平穏」
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禅を学ぶなら読んでみたい、鈴木大拙すずき だいせつ)。

鈴木大拙は、「禅」に関する著書を複数英語でも発表することで、世界に「禅」を広めることに尽力した明治生まれの禅の権威です。その功績は、ノーベル平和賞候補にも上がったほど。

大拙は「霊性(Spirituality)」を重要な思想とし、禅を学問としてでなく、「日常生活に取り入れて生きること」を大事にしました。

後年、スティーブ・ジョブスが「禅」に傾倒するきっかけとなったのも大拙の教えを引き継いだ禅僧との出会いです。また、大拙の禅の教えは、現代では、「マインドフルネス心の瞑想)」として、形を変えて現代社会でも重視されています。

そんな鈴木大拙の教えにはじめて触れる方向けの本が、今回紹介の著書「はじめての大拙」です。

鈴木大拙の存在を知らずとも、何かこころにふれる言葉が108こ紹介されています。「禅の本質」を厳選された言葉から読み解いていく「大拙入門」です。

今回は本書から、私の琴線に触れた言葉を書き記します。

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本書の構成

本書では、大拙の言葉が、以下のカテゴリーで分けられて紹介されています。

第一章 自然のままに、自由に生きる
第二章 機械にとらわれず、美と愛に生きる
第三章 知性・言葉とともに、無心に生きる
第四章 苦しみや矛盾のなかを生きていく
第五章 禅の悟りは、いわゆる「宗教」ではない

以下では、それぞれの章で、時折、振り返り味わいたいと思った言葉を、抜粋・省略を加えて紹介します。

自然のままに、自由に生きる

はじめての大拙:自然のままに、自由に生きる

私たちは、自由に生きたいと思いながらも、様々なものにしばられて生きています。
とても自由とは思えない状況ですが、大拙は、それを十分にふまえたうえで、それでも人は「自由」に生きていくことができると言います。

自分なりに生きていく

現実をそのまま受け入れてしまうのではなく、全面否定するのでもなく、自分なりに生きていく。
無理な承認欲求を満たそうとせず、それでも人間として必要な承認を求めながら生きていく。
それが、自ずから然りと、ほんとうの「自分」そのままに生きていくこと。しっかりと自らに由って生きていくこと、自由ということ。

自由意志で生まれてきた者なんて、ひとりもいない

自分は生まれようといって、生まれたのでない。親が生んだのである。その親も自分で生まれようとして生まれたのでない。自由意志などいうので生まれ出たものは一人もないのである。みな与えられたものを受け入れるだけである。

みずから・おのずから出てくるのが、自由

西洋のリバティやフリーダムには、自由の義〔意味〕はなくて、消極性をもった束縛、または、牽制から解放せられるの義だけである。それは東洋的の自由の義と大いに相違する。
自由はその字のごとく、「自」が主になっている。抑圧も牽制もなにもない、「自ら」または「自ら」出てくるので、他から手の出しようのないとの義である。
天地自然の原理そのものが、他から何らの指図もなく、自ら出るままの働き、これを自由というのである。

「わがまま放題」は、あやつられているだけ

わがまま放題は、かえって自分が主にならないで、実は何かの枠に、はめられる、我というものの奴隷になっておるのです。だから、わがまま放題にするというと、人はいかにも自由なように思うけれども、その実は、何か他のものにあやつられてあっちに動き、こっちに動きしているのであって、はなはだ自由ならぬ人と言うてよいと思います。わがままをやればやるほど、ものに使われて奴隷になっているんです。

人間を征服するものは人間の内なる自然

分けると、分けられたものの間に争いの起こるのは当然だ。力の世界とは勝負である。制するか制せられるかの、二元的世界である。
人間は外側の敵を克服しつつ、自分の領域を拡げて行くと思っているが、克服されるべきは「内」にある。つまり、自分自身である。

機械にとらわれず、美と愛に生きる

はじめての大拙:機械にとらわれず、美と愛に生きる

何か目標をかかげ、それに向かって努力することは悪いことではありません。しかし、それ以外の生き方もある、と大拙は言います。
あまり目標、目標と目くじらを立てずに、人生そのものを楽しみ、ゆっくりと美しく生きる。すべてを「目標達成に役に立つか」という基準で考えるのではなく、もっと自由に、愛情をもって生きることもできます。

機械を使うか、機械に使われるか

自分は機械を使っておると思っていても、その実、使われているのかも知れない。機械的になった人間の生命というものは、もはや創造性を喪失して単なる道具と化してしまう。

我々は一切に責任がある

存在するものすべての相依相関 の真理に目覚め、たがいに協力する時、はじめて我々は栄えるのだという事実を、まず自覚しようではないか。 個別的に言えば我々のひとりひとり、集合的に言えば我々のすべては、善にあれ悪にあれ、この人間社会に行なわれることの一切に責任がある。 だから、我々は、人類の福祉と智慧の全体的発展を妨げるような条件を、ことごとく改善もしくは除去するように努めなければならない。

愛は力を超越する

愛は実在の核心に滲透し、知性の有限性をはるかに越えて、無限そのものである

知性・言葉とともに、無心に生きる

はじめての大拙:知性・言葉とともに、無心に生きる

言葉は、人を癒し救うこともあれば、傷つけ殺すこともあります。そして私たちは、そんな諸刃の剣である言葉でいつも何かを考えています。
もし破壊的な言葉で考え続け、その暴走が止められなければ、私たちの生命がおびやかされます。この社会で餌食にならないために、知性を働かせ策をめぐらすこともあります。
でも、何も策略を練らず、価値判断をせずに、ただ無心に生きることも必要なのではと大拙はいいます。

言葉で説明するほどに、「それ」が遠のいていく

言葉の説明は、それをいかに積み重ねようとも、我々を自己の本性に導き入れてはくれない。説明すればするほど、それは遠のいてゆくばかりである。
言葉は思想を反映するけれども、経験した感情そのものを伝えることはできない。

言葉は、実際の生命を交換するための貨幣にすぎない

言語は記号にすぎず、もの自体ではあり得ない。ところが、お互いの意志の伝達のために我々が作り出したこの言語はあまりにも便利なので、我々はともすると、それを実在ととりちがいかねない。
お金は本当の価値のある物の代りである。しかし始終使っているうちに、我々はお金そのものに価値があるかのごとくに扱うようになる。言語はお金のようなものである。

苦しみや矛盾のなかを生きていく

はじめての大拙:苦しみや矛盾のなかを生きていく

人生思い通りに生きたいけれどしたいけど、できないとき、人は苦しみます。全く苦しみのない人はありません。これが仏教の基本的な考え方(苦観)です。けっして人生を悲観しているわけではありません。
逃げずに「思い通りにならないものはある」と認めて、それでもその世界で生きていく、やることをやっていく。それが「人間の生き方」だとと大拙は言います。

あきらめない、やり尽くす、苦しみのなかへ入る

あきらめでは一種の現実逃避。そうじゃないのだ、その〔苦しみの〕中へはいってしまうんだ。悲しみを味わう、悲しみを楽しむということは、人間にのみ許されているのである。
人生は、どう論じようとも、結局苦しい闘争である。だが、苦しめば苦しむほど、あなたの人格は深くなり、そして、人格の深まりとともに、あなたはより深く人生の秘密を読みとるようになる。

ただ日々の仕事をやることがいちばん大切

なんでもない仕事、それが最も大切。何か人の目を驚かす、というようなものでなくてよいのです。
我々の一生というものは、なにも目を驚かして、偉い者になろうとか、なったとかいうところにあるのでなくして、日々の仕事をやることが一番です。

自らを肯定し否定することから、寛容と尊重の心が生まれる

人は人、自分は自分という立場をはっきり分け、それを理解することから寛容というものが出てくると思う。自分を否定してまた自分を肯定するということが一人の人間によって行なわれるところに、人間尊重の根源があるとわしは思う。

禅の悟りは、いわゆる「宗教」ではない

はじめての大拙:禅の悟りは、いわゆる「宗教」ではない

「私は無宗教です」というときの「(無)宗教」という言葉は、私はそんなイヤなものとは関わりがありません、という想いが込められているのではないでしょうか。
禅には拝すべき神もなく、守るべき儀式もなく、死者の行くべく定められた未来の住家もなく、幸福が保障されるであろうような霊魂なるものもありません。ただ、禅には、なんらかの「悟り」が必要だと大拙は言います。「悟り」とは、気づき、アウェアネス、自覚であり、自身で体験する必要があります。

結果を期待して祈るのは、ほんとうの祈りではない

結果の生ずることを期して祈る祈り、願をかけたらその願が叶う、どうぞ叶えてくれというのは、ほんとうの祈りでない。こういうのは宗教的の祈りではなくて、ただ世間の商売、取り引きというてよい。

宗教と道徳は異なるが、道徳を無視すべきでもない

道徳だけでもいけないが、それがないような宗教ではだめだ。宗教にはもっとゆっくりしたものがないといけない。戒とか道徳とかいうと、どうも堅くるしくなる。それも悪いとはもとよりいえないが、宗教生活には心寛く、体胖かなところがなくてはならぬ。

禅には「肯定」がある。ただの虚無主義ではない

禅を虚無主義と思ってはならぬ。すべての虚無主義は自己破壊であって、何らの目標も具えていない。否定主義は方法としては健全であるが、最高真理は肯定にある。

自分の生命の内からのもの。霊性と大地

霊性と言うといかにも観念的な影の薄い化物のようなものに考えられるかも知れぬが、これほど大地に深く根をおろしているものはない、霊性は生命だからである。
禅とは、人間の心の底にある。無限の創造性に徹して、これに順応して動作することである。無限の創造性は、無限の可能性と同義

最後に

今回は、著書「はじめての大拙」から、時折、読み返したい私の琴線に触れた言葉を書き記しました。
ここで紹介した言葉はごく一部です。是非、本書を手に取って、ご自身で読んでみてください。「生き方」「心の平穏」に役立つ気づきがあるはずです。