「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」との冒頭があまりにも有名な福沢諭吉の「学問のすすめ」
しかし、現代人はこの後に続く正しい内容を知らず、「平等」という言葉使い「自己の権利」を主張しているように見えます。
理想的には「平等」であるべき社会も、実際には、賢き人、愚かな人、富める人、貧しき人がおり、そこには雲泥の差がある。これらの理由は何なのか。そして、何をしなければならないのか?
「学問のすすめ」が書かれた明治時代は、江戸時代が終焉し封建制度が崩れたことにより、武士階級というミドルクラス(中流階級の知的層)が大量失業を迎えた時代。また、同時に、グローバル化、制度、価値観が大転換した時代であり、今の令和の時代と重なる部分も多い。
最初の5ページを読むだけで「学問を学ばねば」と開眼・魅了されてしまう明治のベストセラー。
令和の今の時代に読んでも全く古くない、むしろ心鼓舞されるまさに名著です。
目次
「学問のすすめ」の2大テーマ
本書のテーマは「学問」しかし、もう一つ大きなテーマがあります。それは「一身独立」です。
学問 :一人一人が自分の頭で考えられる判断力を持った人間になれ
一身独立:一身独立せよ。そして、社会に役立てよ。そうすれば、国家も強くなる
以下で詳しく見ていきましょう。
なぜ、学ぶ必要があるのか
長く続いた封建時代が崩れ、大量の武士が職を失った大失業時代。人はみな平等であるべきですが、実際には、富める者・貧しいものに二極化しています。
この不平等が生じる理由は「学ぶか、学ばざるか」。
社会に役立つ実学を学び、また、モノの道理を知ることで「一人一人が自分の頭で考えられる判断力を持った人間になりなさい」と福沢諭吉は教えます。
そして、急速に明治政府により変わる世の中に対し、庶民が持つ不満に対し、以下のように諭すのです。
国民のなかには、無学で文字も知らず、善悪の判断もつかず、飲食と寝起きすることだけが芸であるような者も少なくない。しかも無学なくせに欲だけは深く、人を騙して法を逃れ、国法の意義も知らず、自分の義務も果たさず、子供だけはつくるが、その子を教育する方法すら知らない。
そんな、そんな親に育てられた子は、国のためになるどころか、かえって害をなす大人になるだろう。こういう愚か者を扱うには、道理をもって説くより、望むところではないが力でもって脅し、彼らの悪行を 鎮めるしか方法がないであろう。
国民がもし暴政をイヤだというのなら、すみやかに学問を志し、みずからの才能と品格を磨き、政府と同等の資格と能力を保つような実力を身につけなければならない、と。これが、私がすすめる学問の目的である。
暴政・悪政を生むのは国民の無知に起因する。確かにその通りと、ご納得いただけるのではないでしょうか。
国家と個人:個人の独立があってこそ国家も独立できる
「学問のすすめ」は、ただ勉強せよと唱えているだけの本ではありません。明治時代という急速な近代化のために制度・価値観が大変革の時代において、単に「個人」の幸せのために学問の必要性を説くだけでなく、強い国づくりのために必要な「国家」と「個人」の関係についても熱く語られています。
それが、「一身独立し、国家と渡り合える人物たれ」という教えです。
指示待ち日本人改革
福沢諭吉が、「一身独立し、国家と渡り合える人物たれ」という論を展開した背景には、日本人の「お上頼み気質」を問題視していたからでした。
「お上頼み」とは簡単に言えば、「指示待ち人間」です。これでは「国は強くなれない!」「急に、「国家と渡り合える人物」を育成する必要がある!」と福沢諭吉は強い危機感を持ったのでしょう。
それ故、個人も国家というチームの一員であるという意識を強めていくことが大事であり、国民と政府が両立して初めて国家が充実していくのだと説いたのです。
国家と国民
従来 :「政府」は「国民」を支配する
明治以降:「政府」は「国民」は対等。契約関係で結ばれている。
もちろん、政治は政府の務めであり、国民はその支配を受けている。しかし、これは双方の職務上の分担をしているだけである。一国の危機存亡に関わるとき、国民の立場だからといって、政府のみに国家の安全を任せ、ただ傍観してよいという理屈はどこにもありません。国民は国民としての義務を果たし、政府は政府としての責任を果たし、ともに助け合ってわが国の独立を維持しなければならないと説いたのです。
官の力と民の力とが互いに均衡するとき、日本の国力は増大し、独立国家としての確固たる地位ができるのである。そうなれば外国と競い合っても少しもひけをとることはない。
全く持って、今の社会にも通ずるお話です。
依存体質の国民に「喝」!
本書の中に以下のような文章があります。依存することなく独立して生きることの大事さをまざまざと教えられます。
独立の気力なき者は必ず人に依頼す、
人に依頼する者は必ず人を恐る、
人を恐るる者は必ず人にへつらうものなり。
常に人を恐れ人にへう者は次第にこれに慣れ、その面の皮、鉄のごとくなりて、
恥ずべきを恥じず、論ずべきを論ぜず、人をさえ見ればただ腰を屈するのみ。
人から物をもらえば、「借り」が生じて正義を貫けない。また人に世話を受けると、これまた「借り」ができて負い目を感じる。すると、みずからを尊ぶ自尊心もなくなり、正々堂々とものが言えなくなる。
これは人間行動の普遍の原理。時代が変わってもすぐに変わることではありません。
令和を生きるあなた、へつらったり、我慢して生き続けますか?
自分の考えを持つだけではだめ、意見せよ
さて、学問をせよと教えた福沢諭吉ですが、当時、日本人に徹底的に欠けているスキルがありました。それが「プレゼン能力」です。
それは武士の美徳として、あれこれ大声を意見するのは醜い部分があったからなのでしょう。一方、西洋ではどんどん議論し、決議し国が作られていました。
そのため、単に、学問により、モノの道理を知るだけでなく、人と議論し、演説(プレゼン)せよと説いています。議論し、意見を伝えることで「学問を積んだ者は社会に貢献する義務がある」と説くのです。
個人同士で意見するだけでなく、国家に対しても意見することで、よりよい国家が作られる。それが日本国への愛国心にもつながると述べています。
最後に
今回は福沢諭吉の「学問のすすめ」を私なりの感想を入れつつ、要約しました。
とにかく学びの多い本で、ここで伝えたことはその一部でしかありません。私は、本書を読み、「ガツン」と大きな衝撃を与えられると同時に、自分の中に熱くるなるものを感じました。
是非、多くの人に読んでいただきたい良書。「良書とは時代を越えて人の心を打つ」。まさにそんな一冊となりました。読書に感謝。