なぜ人類にはこれほど多様な文化があるのか?
異なる他者とどう関係を築けばよいのか?
上記問いは、グローバル化が進む現代の世界で、ますます重要になっている問題です。そんな文化の違いを考える文化人類学は、19世紀末から20世紀前半にかけてヨーロッパやアメリカで確立された学問です。大航海時代をへて、西洋諸国がアジアやアフリカなどを植民地にするようになった時代に生まれました。
世界では常に戦争が起こっていますが、より多様性が増す中で、文化・考えの違いを乗り越えてどうやって「ともに生きるか」は大きな課題です。この鍵となるのが「つながり」と「はみだし」だと、著書「はみだしの人類学」の著者松村圭一郎さんは言います。
つながりが大事なのは、わかるけど、「はみだし」とは?
本書を読むと、「はみだし」こそ、違いを乗り越えて理解し、ともに成長し幸せになるキーファクター「知の技法」であることが腹落ちしてわかります。読了後、心が穏やか、かつ、満たされた気持ちになりました。今回は、本書からの学びを紹介します。
目次
人間とは何か
今、様々なメディア・書籍で「人間とはどんな存在か?」が問われています。その理由を考えたことがありますか?
その大きなきっかけは、テクノロジーの進化、ロボット・AIの出現です。
なぜ、今、盛んに「人間」について問われるのか
2022年現在では、コロナ禍でレジがセルフレジに置き換わり、パート・アルバイトがレジ仕事が明らかに減っています。今後、単純労働をはじめ多くの仕事が、AI・ロボットに代替されることは、否定のしようのない事実です。
その結果、生まれたのが、以下のような重要問題です。
・人間がみずから考え、行動すべき領域はどこに残るのか?
・どこまでを人間が判断し、どこからを機械や科学技術に 委ねるのか?
これからの時代、子育てから人間関係のあり方まで、ありとあらゆることに、人間がみずから考え責任を負う「人間らしさ」を守るべき領域と、テクノロジーに判断を委ねる領域との線引きがますます困難になっていきます。そこで、考える必要に迫られるのが「人間とはどんな存在か?」という問いなのです。
「人間らしさ」はどこにあり、それを守るために機械やテクノロジーに委ねるべきではない領域はどこなのか、それを判断する根拠が問われます。
近代社会以降大切にされるようになった「個人」
さて、近代社会の人間観・社会観の中心には、「個人」という存在があります。確固とした「わたし」が疑いなく存在しています。人権や所有権という概念にしても、犯罪者を裁く司法制度にしても、近代社会では「個人」がしっかりとした 輪郭 をもった存在としてあることが前提となっています。
「個人」の権利、獲得の歴史
近代以前の社会は、封建的な身分制や強固な親族組織のなかに人が位置づけられていました。それぞれの人は個人である前に、ある集団のなかでどんな位置を占めているかのほうが重要。故、すべての個人に同じ人権や自由が認められていませんでした。近代社会になっても、長いあいだ、一人ひとりが「個人」として対等な存在ではなく、個人である前に「集団の一員」として扱われてきました。
つまり、ある個人と別の個人が対等であることがあたりまえになったのは、最近のことにすぎません。
個人主義と自己責任
今の時代、「個」という概念は極めて大事です。しかし、今、「個」ベースとする社会にも、問題が生じています。例えば、日本で非正規雇用にある人が低収入なのは、その個人に問題があるからか?それとも国の政策がおかしいからなのか?
格差が生まれるのは、貧しい個人に努力や能力が足りなかったからなのか? 確かに、そういう部分があるのも否定はできませんが、すべてがそうとは言い切れません。
奴隷制度の中では、「奴隷」が貧しいのは、その個人の努力や能力が足りないからだと考える人はまずいません。しかし、一人一人が「個人」として扱われる現代では、「自己責任」がセットとしてあり、これが、とても普遍的な課題となって明らかになったのです。
つながりを考える
「人間とは何か」の問いに向き合うとき、キーとなるのが「つながり」ではないか、と松村さんは考えを述べます。
そもそも、人間という存在を考える道筋は無数にあります。松村さんは、文化人類学的知見「人間は社会的動物である」という点から、その問いにアプローチします。
「つながり」の2つの働き
「人間は社会的動物」、それは人類がずっと昔から人と関わりながら生きてきたということです。
人と関わり、ある集団に身をおくとき、そこには「つながり=人と関係する」が生まれます。この「つながり」には、ふたつの働きがあり、それは真逆な動きです。「ともに生きる方法」を考えるときは、この両方の側面に目を向ける必要と、松村さんは考えます。
❶存在の輪郭を強化する働き ⇒違いを意識。分断につながる
❷輪郭が溶けるような働き ⇒違いを乗り越えないと醸成されない
「分断」は悪い?考え方を変えてみる
今、世の中の大問題の一つに「分断」があります。
一般的に、「分断」とは「つながり」が失われた状態と考えます。しかし、松村さんは、「分断しているように見えるのは、むしろ両者がつながっているからかもしれないと考えると、世の中が少し違って見えるのではないか」と指摘します。
現代社会では、情報ネットワークでだれもがつながる時代です。どんな人でも、ネットにアクセスさえすれば、自分の意見を表明することができます。つまり、世界はかつてないほど「つながる」のが容易な時代です。以前は、つながることがないが故、分断があったことすら意識されなかったはずです。
だから必要なのは、「社会が分断されている」「社会からつながりが失われている」という現代社会の問題も、違う側面から光をあて、問いを立てる。すると違った見方ができるのではないか、と、松村さんは提起するのです。
「はみだし」て、差異ともに生きる
「わたし」が揺さぶられる経験
見知らぬ土地を訪れ、地元の人と交わったとき時、自分で見聞きした世界のすべての外側に、「まったく知らない世界が広がっていた!」と感動・開眼させられた経験はないでしょうか。
私は海外旅行が大好き(コロナ以降、全く行けていませんが)ですが、それは、「人間がどう暮らしてきたのか」「人が生きていくってどういうことだったのか」という気づきに「脳が喜ぶ瞬間」があるからです。歴史的建造物を見、現地レストランで食事をし、バス・地下鉄に乗ると目にする。すると、日本とは異なる現地の日常的の中にしみ込んだ差異が、「いにしえから続く、その地の人たちの営み」を気づかせてくれるのです。
このことを、松村さんはこのような経験を、「自分をとりまく世界の見え方が大きく変わって、「わたし」という存在がもう一度つくりなおされていく」と表現されています。
輪郭が融解し、ゆさぶられ、変化(成長)する
あぁ、私が世界の国々で出会った脳が喜ぶ感動、そして、海外旅行から帰ってくると自分が大きく成長した!と思えたのは、自分がまさに他者・他国と交わることで、「わたし」の輪郭が溶け出し、境界線が開かれ、その外側へとはみだし大きくなっていたからなのか!と、大いに納得できた言葉でした。
つながりの大切さ
松村さんは、文化人類学のフィールドワークで、人びとの生活のなかに入りこみ、異なる言語を学び、対話をしながら、なじみのなかった人たちと長い時間を一緒に過ごすそうです。
すると、自分の小さな殻に閉じこもっていられなくなる。思い切ってそれまでの自分のやり方を捨てて、彼らと同じようにやってみる。現地の人びとの生活に「参加」することで、、思いもよらなかった可能性に気づかされるのだそうです。
私たちは他の文化を見るとき、知らず知らず「色眼鏡」をかけて、かなり偏見を持って彼らを見ています。しかし、大事なのは、現地の人と同じ視点から世界を見こと。そうすれば、おのずと、自分とは違う世界を内側から理解しようという気持ちが起こります。
SNSは匿名性を武器に、相手を理解せずとにかく人を攻撃する人がいます。そこにはそもそも「つながり」はありません。戦争にも顔が見える「つながり」はありません。
「つながる」というと、どれだけ人脈を持っているかということがクローズアップされがちですが、そういうことだけではない。はみだし、境界が溶け合うことで、自己が成長し、差異を受け入れ共存するための「つながり」が大切です。
よく理解できる、そして、心が穏やかに満たされるいい本でした。是非、多くの人に、そんな心の感動を味わってほしいです。
最後に
今回は、松村 圭一郎さんの「はみだしの人類学」を紹介しました。人と交わり、差異を受け入れることが、自分の成長になり、ともに手を取り幸せになることにもつながる。とても大切な教えを頂きました。
「NHK出版 学びのきほんシリーズ」はおすすめ!
過去「NHK出版 学びのきほんシリーズ (全19巻)」を6~7冊か読みましたが、どの本も非常によい!分量が多くないのに「深い学び」が詰まっている。是非、皆さんにもおすすめしたいです!