元禄14年3月14日(1701年4月21日)朝、江戸城松の廊下において、赤穂藩主・浅野内匠頭が、高家・吉良上野介義央を斬りつけました。「松の廊下 刃傷事件」として知られる時代劇でも有名な事件です。
白蔵盈太さんの『あの日、松の廊下で』は、松の廊下刃傷事件を題材に、実在の人物の人間模様を描いた歴史フィクション小説です。
主人公は、真面目な江戸の役人である旗本・梶川。仕事完遂後に、尊敬する二人の上長 吉良・浅野の3人で笑顔で楽しく打ち上げの一献を酌み交わすことを本気で夢見ていました。しかし、事件の目撃者となってしまう。本作は、梶川がこの史実をどう日記に描きしておくべきか…とさんざん悩むところから、ストーリーが始まりますが、これが面白い!冒頭から面白く作品に引き込まれます。
仕事のスタイルが全く異なる上長の間にできた溝は、いかに深まり、殺傷事件に発展したのか―
3人の出会いから事件までを追うストーリーは、現代の企業内で起こる問題そのもの。仕事がそこそこデキる礼儀正しいサラリーマンが、「プロジェクトの成功」と「上司の関係修繕」をに奔走する、江戸城お仕事小説に、ビジネスマンは共感必至!中間管理職の苦悩そのもので、歴史観も変わります。
今回は、小説「あの日、松の廊下で」のあらすじ・感想を紹介します。
目次
あの日、松の廊下で:あらすじ
目撃者、そして浅野内匠頭と吉良上野介の間に割って入った人物として、彼はどんな想いを抱えていたのか。
江戸城という大組織に勤める一人の侍の悲哀を、軽妙な筆致で描いた物語。
第3回歴史文芸賞最優秀賞受賞作品
―Amazon あらすじ解説
主人公の旗本・梶川与惣兵衛は実在した人物。殺傷の現場に居合わせ、「殿中でござる、殿中でござるぞ」と叫んで浅野内匠頭を背後から取り押さえた人物です。
梶川は、事件が起きるまでの3カ月間、事件の加害者・被害者の2人と仕事を一緒し、それぞれの上長の良いところ、悪いところも知ったうえで、2人を敬愛していました。
それ故、事件の背景と実際の殺傷の現場を知る目撃者として、世に誤解を与えないように真実をどのように日記に書き残すべきか、真剣に悩むのです。ストーリーは、日記を前に、梶川が浅野と吉良とのお仕事の日々を回想する形で話が展開されていきます。
あの日、松の廊下で:感想
松の廊下事件は、幕府の大事なイベント当日の朝に起こりました。浅野が前日までの吉良の儀礼の作法指導があまりに厳しく&無礼であったことに堪忍袋の緒が切れて、斬りつけたのです。
5代将軍綱吉は「朝廷との大事な儀礼の日に、殺傷事件とは何事か!」と立腹し、浅野は即座に饗応役を降ろされ、切腹。赤穂藩は取り潰し。一方、吉良はケガはしたものの命は無事で、お咎めもなし。 赤穂藩は御家再興に奔走するも、その道が断たれ、「吉良邸討ち入り」します。これが「赤穂浪士の討ち入り」です。
そもそも、こんな事態となった原因は何だったのでしょう?以下、ネタバレを含むのでご注意を。
事件の発端:3人の出会い
梶川・浅野・吉良 3名の出会い。それは、事件の3カ月前、幕府から江戸城で毎年行われる「勅使奉答」の儀式を滞りなく行うプロジェクトのメンバーに命じられたことから始まります。
「勅使奉答」の儀式とは、幕府と朝廷の友好関係を維持するための恒例儀式。朝廷からの使者を江戸城で歓待する、幕府にとっては極めて大事な一大イベントです。粗相があってはならないし、とにかく「お金」がかかる…。資金調達もプロジェクトの任務です。
それぞれ、以下の役目を背負っていました。
高家・吉良上野介 | 指導役。「勅使奉答」の儀式 取り仕切りの経験者であり、有能 |
赤穂藩 | 実務実行を命ぜられた藩。お金の工面も。藩の親分大名が浅野内匠頭 |
旗本・梶川与惣兵衛 | 幕府方の役人としてサポート |
3人にとっての不運
吉良には、全体を取り仕切り、抜かりなく儀式の準備を行ってきた実績がありました。しかし、この年は、幕府から吉良に対し、朝廷との間を取り持つ「密命」が下り、吉良は長らく江戸を離れなければなりませんでした。これが不幸の始まりです。
厳しい上司・吉良が江戸を発った瞬間から、関係者の気が緩み、仕事が停滞しはじめます。儀式の質が下がり「なんだ昨年より貧相だな」なんて感想を将軍に一言でも言わせてしまったら、首が飛ぶかも…な時代です。
さらに重なった不幸は、赤穂藩は火消しなどのチームワークが要求される下天系のお仕事は得意でしたが、「金勘定が苦手」だったことです。「合戦で手柄を立てるのが武士の役目」「銭勘定などは卑しい商人の仕事だ」と軽蔑する藩役人が多かったことは、映画「決算!忠臣蔵」にも描かれています。
「これは、マズイ…」
物事を冷静に見る目を持つお役人・梶川は、この事態を見過ごせず、調整に乗り出します。浅野には吉良に進捗状況を手紙で伝え、アドバイスを図るように、そして、吉良に対しては、赤穂藩を気づかい言葉に注意しながら、プロジェクトの進行が思わしくないことを書面で進言するなど、調整に努めるのです。しかし…
心を痛める梶川
▼梶川の上司評価
浅野内匠頭 | 浅野様ほど親しみやすく、柔軟で人情を重んじる懐の深い大名はいない! (部下に対しても義理人情が厚いため、慕われる。結果、忠臣蔵へ…) |
吉良上野介 | 吉良様ほど、私利私欲を捨てて己の責務を果たそうとする高潔な人にお会いしたことはない! 真面目一徹。完璧主義 |
梶川にとっては、吉良も浅野も、それぞれの指導者として素晴らしい点をもつ人物であり、敬愛の対象でした。
しかし、吉良と浅野の仕事のスタイルが全く異なっていたことがさらなる不幸につながります。
対面で話し合っても、立場が違うと不平不満もでる。しかし、やり取りは書面が大半。さらに、儀式目前、吉良が浅野が儀式で恥をかかないようにと儀式の作法を厳しく指導したことが、2人の溝をさらに深めて、儀式当日の殺傷事件に発展してしまったのです。
事件後、巷に広まった2人のイメージ
松の廊下事件で、浅野、吉良に対して、以下のようなイメージが広がりました。
浅野内匠頭 | 責任感が強く生真面目。少し融通の利かない骨太の正義漢 |
吉良上野介 | 自らの家柄を鼻にかけ、賄賂をばらまいて幕府を裏で牛耳り、私腹を肥やす極悪人 |
梶川は2人の誤った人物イメージに心を痛めます。そして、日記に、事件をどのように書き記すべきかと悩むのです。
江戸時代も現代も変わらない、板挟み中間管理職
本作は歴史小説ですが、その様は、現代企業内でも繰り広げられる人間模様そのものです。
・仕事スタイルが異なる2人の上司
方針の違い・コミュニケーション不足で発生する個人間・組織間の溝
・上司の間で板挟みになる中間管理職
・上司の目が届かないところで すぐさぼるデキの悪い社員・ズル賢い社員
・状況を見かねた、真面目でデキる社員が苦労をしょい込み、苦労する
現代は対面でなくとも、テレビ会議・電話・メールといったコミュニケーションツールがあります。しかし、書面伝達に馬・飛脚の時代、そこで働く人々の、仕事・人間関係のストレスはいかほどであったか..SNSの「既読」がつかないだけでイライラする現代人には耐えられないでしょう。
さらに、江戸時代は今以上に、「身分」に対するプライドが高かった時代です。浅野には、「大名である私を厳しく叱責する吉良は何様だ!」という思いがあったでしょうが、吉良にしてみれば「浅野が儀礼で恥をかかないように指導せねば」と厳しく指導した面もあったでしょう。まさか、斬られるほどの恨みを買っているなどとは思っていなかったはずです。ただ、浅野が感情を制御できなくなるほど、疲労困憊するまで指導したのは大きなミスでした。
何事も、やりすぎは行けません。必ず、問題が発生します。
どうしたら、違う結末を導けていたのかー。
小説終盤、吉良・浅野と共にプロジェクトの成功を祝して、酒をを酌み交わすことを本気で夢見ていた梶川は、2人の認識の溝を埋め尽くせなかったことに、胸を痛めます。そして、「あの日を書き記した日記」を握りしながら、号泣するのでした。
最後に
今回は、白蔵盈太さんの小説『あの日、松の廊下で』を紹介しました。歴史にさほど興味がない方でも、歴史を学びたいという気持ちにさせてくれる小説です。
また、どの時代になっても変わらない「人間という生き物」についても学ばされます。読みどころ満載の本です。多くの方に読んでほしいです。