【書評/要約】人生の短さについて(セネカ 著)(★5) 超良書!人生は短くない。自分の人生を生きよ!

われわれが手にしている時間は、決して短くはない。むしろ、われわれが、たくさんの時間を浪費しているのだ。

セネカは紀元前27年~紀元後68年、つまり二千年前の古代ローマ帝国の政治家、詩人。そして、ストア派哲学者です。

人生の短さについて」は、当時、ローマ帝国の食料管理官の任にあったパウリヌスという人物に宛てつづられています。パトリヌスは、いわゆる、エリートで多忙を極める人物です。そんな彼に、この多忙な職から身を引き、閑暇な生活を送るように勧めます。

セネカは、「多忙は人間から有意味な時間を奪い、人生を浪費させて、短くしてしまう。多忙な生活から離れ、時間を有効に活用するすべを知るべし。」と提言します。

現代の私たちも、日々、時間に追われ生きています。むしろ、昔以上に世の流れはスピードアップし、否応なく押し寄せる変化に多忙を極めていると言えるかもしれません。そんな時代を生きる私たちに、セネカは「時間との付き合い方」に関する非常に重要なことを教えてくれます。

絶対に読むべき一冊です。

[スポンサーリンク]
Audible 2か月体験無料
聴き放題対象本:おすすめビジネス書・自己啓発書  おすすめ小説

人生は短いのではない。浪費してるだけ

「忙しい」が口癖になっている人は、多いですよね。

感謝もされないのに、偉い人たちにおもねり、自分からすすんで奴隷のように身をすり減らす者たち、無益な仕事に懸命に汗を流す人たち、怠惰にふける者たち。こんな人が溢れるのは二千年前の古代ローマも同じ。そんな人が世にあふれる中、セネカは次のように言います。

ひとの生は十分に長い。そして、偉大な仕事をなしとげるに足る時間が、惜しみなく与えられているのである。ただし、それは、人生全体が有効に活用されるならの話だ。人生が贅沢三昧や怠惰の中に消え去り、どんな有用なことのためにも費やされなければどうなるか。ついに一生が終わり、死なねばならぬときになって、われわれは気づくことになるのだ ―――― 人生は過ぎ去ってしまうものなのに、そんなことも知らぬまに、人生が終わってしまったと。

多くの人たちは、他人の幸運につけ込んだり、自分の不運を嘆いたりすることで頭がいっぱい。また、大多数の人たちは、確固とした目的を持っていません。だから、彼らは不安定で、一貫性がなく、移り気です。

このような人生に対し、セネカの意見は「彼らの人生の多くは、生きているとはいえず、たんに時が過ぎているだけだ」と厳しいです。

時間の使い方が問題

時間の使い方が問題

では、私たちの時間の使い方は何が問題なのでしょうか。

自分の金銭を他人に分け与えようとする者など、どこを探しても見あたらない。なのに、だれもかれもが、なんとたくさんの人たちに、自分の人生を分け与えてしまうことか。ひとは、自分の財産を管理するときには倹約家だ。ところが、時間を使うときになると、とたんに浪費家に変貌してしまう

私たちは時間が大切であることをわかっていないわけではありません。しかし、人は時間をまるで無料のモノであるかのように惜しげもなく使ってしまうところがあります。人・会社にお願いされたとき、時間が求められた理由を我々は非常に気にするくせに、時間そのものに対する意識は希薄です。

そして、今日も自分がしたいと思っていたことができなかったなぁと思う程度で、自分の人生が略奪されていることに気付いていないのです。こんなことでは、自分の人生の最後となる日まで、誰かのため時間を消費してしまうことになります。

自分のために時間を使おう

私たちは「仕事なのだから、今、忙しいのは仕方がない」と考えがちです。そして、老後、退職に自分の時間を謳歌しようと漠然と考えているところがあります。しかし、そのような考え方に対しても、セネカは次のように言います。

自分が死すべき存在だということを忘れ、五十や六十という歳になるまで賢明な計画を先延ばしにし、わずかな人たちしか達することのない年齢になってから人生を始めようとするとは、どこまで愚かなのか。

先延ばしは、人生最大の損失だ。先延ばしは、次から次に、日々を奪い去っていく。それは、未来を担保にして、今この時を奪い去るのだ。生きる上での最大の障害は期待である。期待は明日にすがりつき、今日を滅ぼすからだ。

老後まで待つまでもなく、自分の人生を長くするためには、自分のために時間を使うことが大事だと説くのです。

人生を長くする時間の使い方

人生を長くする時間の使い方

では、自分人生を長くする=自分の人生を生きるに当たって、どのような時間の使い方をしたらよいのでしょうか。

それは、「未来に頼らず、現在を逃がさず、過去と向き合う」ことだとセネカは述べます。

人生は、三つの時に分けられる。過去と、現在と、未来だ。これらのうち、われわれが過ごしている現在は短く、過ごすであろう未来は不確かであり、過ごしてきた過去は確かである。過去が確かであるのは、そこには運命の力が及ばず、だれの自由にもできないからだ。

ところが、そのような過去を見失ってしまうのが、多忙な人たちなのである。なぜなら、彼らには過去をふり返る暇がないし、かりに暇があったとしても、悔やんでいることを思い出すのは不愉快なことだからだ。それゆえ彼らは、うまく行かなかった時間を思い出すのを嫌がり、あえてふり返ろうとはしない。

多忙な人間の関心は、この現在という時にしか向かない。ところが、それはあまりに短いので、つかみ取ることができないばかりか、たくさんの雑事に気を散らしているため、奪い去られてしまうのです。

セネカは、過去を振り返ることの重要性を説きます。過去は私たちが持つ時間の中で、唯一運命に支配されない神聖な時間です。過ぎ去った時間は誰にも侵されることのない「財産」です。過去を振り返ることもなく忘れ、現在をおろそかにし、未来を恐れる人たちの生涯、つまり、時間に正しく向き合えない人の人生は、極めて短く、不安です。

だからこそ、過去をじっくりと振り返る時間が持てる、自分の人生を生きる生き方をすべしと述べるのです。

ちなみに、セネカがいそしんだ哲学「ストア派」は、自らに降りかかる苦難などの運命をいかに克服してゆくかを説く実践的な哲学であり、自らを省みる哲学です。中でも、同じくストア派の哲人皇帝マルクス・アウレリウスの「自省録」もまさに、タイトル通り、内省を重視しした本です。

多忙な生活から離れ、ほんとうの人生を生きよ

過去を振り返る時間もないほど忙しい生き方って、どうなのよと考えるセネカは、親愛なるパウリヌスに、国家の重職に着く彼に敬意は払いつつ、「多忙すぎる現在の職を退き、自分の時間を生きよ」と諭します。

ひとは、互いの時間を奪いあい、互いの平穏を破りあい、互いを不幸にしている。そんなことをしているうちは、人生には、なんの実りも、なんの喜びも、なんの心の進歩もない。だれも死を見すえることなく、遠くの希望ばかりを見ている。

わたしは、あなたに、(現職を退いて、)怠惰で退屈な休息をすすめるつもりはない。

あなたの人生のうちのかなりの、そして間違いなく良質な部分は、国家にささげられた。これからは、その時間を少しでも自分のために使いなさい。

最後に

今回は、セネカの「人生の短さについて」を紹介しました。

いかに生きるべきかという問題は、時代を超えた普遍的な問題です。

私は、会社を辞めたことにより、自己責任度は非常に大きくなりました。しかし、人に時間を支配される奴隷的な生き方からかなり解放されました。そして、日々の幸せ度は格段にUPしました。

このような生き方に踏み切る上で重大な役割を果たしたのが、過去の偉人たちの考えに簡単にアクセスできる「読書」でした。本書の中でも、セネカは、「崇高な(過去の)哲学者たちは崇高な思想体系を築いている。私たちは、いつでもこれらの思想に書物によってアクセスできる。彼らはいつでも時間を空けており、彼らのもとを訪れれば、帰るときはいっそう幸福になる」と述べています。

本書も、二千年前の時を経て、そんな崇高な思想にアクセスする扉をいつでも開いて待っていてくれる良書です。アクセスして彼らの考えに触れるかどうかはあなた次第。

奴隷的な生き方、多忙による自己喪失な人生に不安・不満を持っている方には、是非とも本書を手に取ってほしい。きっと、セネカの言葉は、私たち自身がよく生きるためのヒントを与えてくれます。